ブログカテゴリ:2号のつぶやき
今年もあと少しになりました。
ギリギリになりましたが、夫1号に続いて、1年を振り返って、妻2号が思うこと、感じたことを書きました!
2016年は私、2号にとって環境がガラリと変わった1年でした。
京北に引っ越し、1号と農業を一緒にするようになって、気づくこと、学ぶことの多い1年だったな~と思います。
初めての農業は、何をしようにもすんなりいかないなぁというのが私の感想です。途中でほり出したくなってしまう自分の弱いところや苦手なことにも気づかされました。でも、どうしたらいいかなぁと試行錯誤を繰り返すことの面白さや作った野菜を通じて人とつながっていける楽しさも感じました。
まだ私は1号の後ろをついて歩いているかんじですが、2人なりの形ができてきたような気がします。
京北での生活でもいろいろなことを気づかせてもらいました。
黒田は人と人との距離が近く、以前、街で住んでいた時には考えられないくらい地域の人と関わることが多いです。町内、地域の集まりや行事があったり、ご近所さんやご近所の農家さんとお喋りしたり。ネパールで人々がつながりながら、助け合いながら生活しているのをいいな~と感じていたので、そんな人と人とのつながりを感じられる生活ができて、とても幸せだなと思います。
そして、山菜や梅、柿、魚、お餅などその時期の物をいただいたり、加工したり、食べたり、気候の移り変わりではない、季節の流れを感じることができたな~と思います。今までも1号の作る旬の野菜を食べさせてもらっていたのですが、今年はより旬を感じられたような気がします。
また、何より私が黒田の生活をの中で感じたのが、生き物との関係です。家の中にも虫はたくさん、時々熊や猿が出たり、鹿はどこにでもいます。少し前に、夫、1号が猟師として鹿の処理をするのについて行ったことがありました。その時に鹿がひっかかっていたところのおじちゃんが「わしも昔はよくやってたんやで」と言っていました。街に住んでいた私にとって動物は身近におらず、まして動物を殺すことは自分からとても遠いところのことでした。でも田舎で暮らす人にとっては違う。周りには野生動物がいて、米や野菜を食べられたら困るという利害関係があり、自分たちの手でそうすることが田舎での生活では当たり前です。この時、動物を肉として食べるということも含め、自分が生きることの裏にこうした“死”があるということを初めて意識した気がします。今、私は畑でもよく虫を殺します。何かを“生む、作る”よりも“殺す”方が多いんじゃないかなと思うとどよ~んとしたりもしますが、そうした自分が生きることの後ろにあることを知る、感じることは大切なんじゃないかと思います。なんでもお手軽に手に入る街での生活では感じられなかったこと、自分の生活、生きることが自分のものになってくるような気がした1年でした。
来年は厄年、かつ大殺界という強烈な年なので、とても恐ろしいですが、なるようになる!といういつものかんじで頑張っていきたいと思います!
今年も1年、ありがとうございました!
来年もよろしくお願いいたします!
初めまして!
少し前にも突然出没しましたが、妻改め、新井2号です。
4月より夫、新井1号と共に農業をしています。
自己紹介が遅くなりましたが、よろしくお願いします!
先日、やっと稲刈りが終わり、
私にとって初めてのお米作りを通して感じたことを書いてみようと思います!
それはずばり、お茶碗一杯の“ごはん”を作るのに
とても長い道のりがあるのを実感したということです。
私は今まで農業はほとんど経験したことがないので、
野菜作りも初めてなのですが、お米作りは1号も初めてで、
二人とも何をしたらよいのか、わけがわからないところから始まりました。
地域の方に教えていただき、
まずは塩水選をして種にするお米を選別。
また、田んぼにするところを耕して水を張り、代掻きをする。
代掻きは土の表面を平らにして水の深さをそろえるためにするのですが、
どうやって土を平らにするのか、全くわからず…。
地域の方を見ていると鼻歌を歌いながら、時には居眠りをしながら(?!)
悠々とトラクターに乗っておられるのですが、私はどうトラクターを動かすことで土が水平になるのか、
何に気を付けて、どこを見てどうトラクターを動かせばよいかわからず、
とりあえずトラクターを走らせているうちに、
深いところはどんどん深くなり、トラクターが泥にはまりそうになり、
本当に投げ出したくなりました。
見かねた地域の方が手伝ってくれ、なんとか代掻きを終わらせ、やっと田植えに。
しかし、代掻きで土をきちんと水平にできなかったこともあり、
デコボコのところを田植え機はまっすぐ進んでくれず、
苗はガタガタに植わり、ところどころで高低差もできてしまいました。
また、田植え後も、水の管理や除草などいろいろとあるのですが、
私たちは正直なところほとんど放置状態。
それでもちゃんと大きくなってくれ、
先日、ついに稲刈りまで無事たどり着きました。
バインダーという機械で刈り取った稲の束は、可愛くて、花束のようで、収穫できた感動なのか、持つと幸せな気持ちになりました。
また、これがお米になるのかと思うと、なんだか不思議な感覚でした。
収穫はしたものの、炊き上がった“ごはん”になるまでに
ここからまだ色々な工程があるからか、どこがどうとうまく言葉にできないのですが
野菜を収穫した時とはまた違った感覚でした。
“はざかけ”をして
太陽の光と風でお米を乾燥させています。
地域の方々のきれいに
そろった“はざかけ”を見て、こういうものが出来上がると思い込んでいたのですが、
自分たちの、穂が地面すれすれ(地面についているものも)波打ったような形を見ると、稲木の組み方一つ一つに意味があるのだと痛感しました。今年は何事も経験で、失敗から学ぶことがあるというのが
二人の言い訳です…!!
この後も、稲こき(イネを茎から外す)、
もみ摺り(もみ殻を取り除き玄米にする)という作業があるようで、
その場しのぎが得意な私たちは
最近になってどうしようか…と考えている最中です。
と、長々と書いてしまいましたが、
この初めてのお米作りを通して、最初にも言ったのですが、
毎日何も考えずに食べていた“ごはん”に
こんなにたくさんの手がかかっているということを知りました。
野菜作りでもそれは感じていたのですが、
お米は作っている期間が長いからなのか、
二人とも初めてでわからない中でやってきたからなのか、
特にそう感じました。
私にとって“ごはん”は炊飯器で炊くとできるものだったのですが、
炊飯器の前のたくさんの工程を知ったことで、
お茶碗一杯の“ごはん”の重みが変わったような気がします。
米を炊いて握って(機械かな?)
海苔をまいて、袋に入れてという工程は考えていたのですが、
その前にこうしてお米を作っている人がいるんだな
(もっと機械化された稲作だと思いますが)
ということを考えるようになりました。
きっと、他の何でもそうで、物ができあがるまでには
色んな人の手がかかっているのだろうなと、
今までも頭では知っていたのですが、
お米ができる全ての工程を経験してみて、実感しました。
もっと“物”の先にあることに目を向けたいな、
そして、コンビニのおにぎりのように、機械が見えるものではなく、
作っている人がより見えるものがいいなと思いました。
ひとまず、“ごはん”になるにはもう少しかかりますが、
初めて自分で作ったお米を味わうのが、楽しみです!